私って、死んだらいったいどうなるの?
ふだんはあまり考えないで生活していますが、実はとても気になる疑問です。

FM福井さんが製作した特別番組「死んだらどうなるの」(2017年5月31日放送)は、ズバリ直球のタイトルで、この疑問と向き合う番組でした。番組はラジオドラマとインタビューで構成。インタビューは、哲学者・医師・僧侶がそれぞれ「死んだらどうなるの?」という質問に応えるものでした。私は、僧侶という立場からお話させていただきました。以下、その内容をテキストにまとめたものをアップします。

―― 死んだらどうなるんですか?

阿弥陀さま、南無阿弥陀仏のおはたらきをいただく私たちは、死んだら、すなわちこの世の縁が尽きたら、浄土(仏さまの国)に生まれて仏(ぶつ・ほとけ)になる、と教えていただきます。浄土に行ったら行きっぱなしではなく、仏としてこの世に還ってきて、人々を教え導く、救う活動をします。

仏さまのイメージって、どうでしょう、仏像、立ち往生など、止まった・静的なイメージかもしれませんが、じつは逆なんです。私たちを救おうと24時間働いていらっしゃる(人間界なら超ブラック企業ですが、、)。遊ぶように仕事され、楽しくてしかたがないんです。

仏になる、ということは、さとりを開くという言葉からもわかるように、真実に目覚めるということです。真実に目覚めるとは、たとえば、諸行無常(あらゆるものは常に変化する)とか、諸法無我(すべてのものはつながり・縁起のなかで存在していて、固定的な我というものはない)ということなのですが、そういうことを、私たちは頭ではわかっているつもりですが、ほんとうのところよくわかっていないのですね。

だから、自分や身近な人たちがいつかは死ぬということを考えもしなかったり、自分さえよければと自分本位でしかものを考えられなかったりします。

仏さまに対して、この世に生きる私たちは、不確かなもの、煩悩にまみれ、迷っている人ということができます。ものごとのありのままの姿をみることができず、どこまでも自己中心的で、状況によっては何をしでかすかわからない、人のいのちを奪うことも厭わないのが、この私です。

南無阿弥陀仏というお念仏をいただくなかで、まず私の心の囚われから離れ、いのちを終えてこの身の囚われも離れることによって、仏となるのです。

―― あの世はありますか?なぜあると思うのですか?あの世はどうなっていますか?

まず、浄土、この場合「あの世」があるのか、ないのか、ということですが、とても答えが気になる質問ですよね。ですが、こういう問いをもつこと自体が、実は「有無の邪見」、あるのかないのかにこだわる、偏ったものの見方、なのです。実はお釈迦さまも、「あるのかないのか」というような問いに対してはお答えになっていないんです。浄土、あの世、は物質的な科学的な認識で捉えられる世界ではないのですね。

しかし、お経には、たとえば、ここから西へ十万億仏土を過ぎたところに極楽があるとか、お浄土はこんな風景で、こういう鳥が飛んでいて、こういう花が咲いている、というような具体的な様子が描かれています。本来は「いろもなく、かたちもない」のが仏さまや仏さまの国のお姿なのですが、それでは、私たちがイメージすることができません。なので、仏さまがそうやって具体的な形になって現れてくださったのですね。私たちは具体的な形がないとイメージできませんから。

―― あの世の存在、あるいは、あの世が存在すると思うこと信じることは、生きている人間にどう影響しますか?

たとえ話になりますが、旅をする時に、帰る家がある旅行なのか、それとも、当てもなく帰るべき家もない「流浪の旅」なのかで、旅の意味合いがだいぶ違ってきますね。人生についても同じことが言えるのではないかと思います。死を滅びや敗北と見るのか、仏として生まれ新たな活動をしていくのか。生き方が変わります。今このときをより深く、より豊かに生きることのできる人生は、どちらでしょうか。

人生にはいろんな苦しみがありますが、それを力強く乗り越えていけるのは、お浄土をわがいのちの帰る世界といただく生き方のほうだと私は思います。今このときをより深く、より豊かに生きること、それが救われていくということだと思います。